耳が聞こえない親子を襲った大空襲 深夜に投げ込まれた石で目覚めると、窓の外には燃える街 #戦争の記憶
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耳が聞こえない親子を襲った大空襲 深夜に投げ込まれた石で目覚めると、窓の外には燃える街 #戦争の記憶

 

耳が聞こえない親子を襲った大空襲 深夜に投げ込まれた石で目覚めると、窓の外には燃える街 #戦争の記憶(読売新聞オンライン)

読売新聞オンライン
耳が聞こえない親子を襲った大空襲 深夜に投げ込まれた石で目覚めると、窓の外には燃える街 #戦争の記憶

手話で家族の戦争体験を語る牧山さん(3月9日撮影、前橋市の牧山さん自宅で)

 街に鳴り響く空襲警報のサイレン、敵機の接近を伝えるラジオの音声、防空壕(ごう)への避難を呼びかける人々の声――これらの生死を分ける情報がまったく聞こえなかった聴覚障害者(ろう者)は、80年前の戦争をどうやって生き延びたのか。その体験は当事者同士が手話などで伝承しつつ、広く語られることはあまりなかった。窓に投げられた石で異変に気付き、炎で赤く染まった街を必死に走ったあの日。前橋市に住むろう者の牧山定義さん(59)が、同じく耳が聞こえなかった母・昌子さんから伝え聞いた戦争の記憶を教えてくれた。 【写真】ロシア兵の墓を守った元兵士の父とほほえむ俳優の玉木宏さん

◆深夜に窓が割れ、外を見ると逃げる人々

耳が聞こえない親子を襲った大空襲 深夜に投げ込まれた石で目覚めると、窓の外には燃える街 #戦争の記憶

12歳の頃の昌子さん(右前)(牧山さん提供)

 1945年3月9日、千葉県に住んでいた昌子さんは、東京・荒川区の宿にいた。父の小泉釜太郎さんと一緒に、東京に住む知り合いに食べ物を分けてもらいに来ていたからだ。当時、昌子さんは10歳、釜太郎さんは42歳。ともに耳が聞こえなかった。  すでに眠りについていた深夜、部屋の窓ガラスが突然割れた。その衝撃と振動で釜太郎さんは目を覚ました。窓の外を見ると、慌てて逃げ出す人々の姿が目に入った。釜太郎さんはひどく青ざめ、昌子さんを起こし、外へ飛び出した。  日付は変わって3月10日、約10万人が犠牲となり、後に「東京大空襲」と呼ばれる空襲の始まりだった。

◆投げ込まれた石が異変を知らせた

耳が聞こえない親子を襲った大空襲 深夜に投げ込まれた石で目覚めると、窓の外には燃える街 #戦争の記憶

牧山さんの母・昌子さん(手前左)(牧山さん提供)

 2人の部屋の窓ガラスを割ったのは、外から飛んできた石だった。「空襲警報が聞こえない親子に異変を知らせようと、投げ込まれたものだったのでしょう」と牧山さんは話す。  釜太郎さんはいつも窓際で寝て、1時間ごとに起きては外を確認するほど注意深い性格だったという。加えて、日頃から近所や宿泊先の隣部屋の人に食べ物を分けて、「いざという時にたたき起こしてほしい」とお願いしていた。空襲警報が聞こえない親子にとっては、周囲の助けが不可欠だった。それがこの日、功を奏した。

◆はぐれた父の教え「前だけを見て走れ」

耳が聞こえない親子を襲った大空襲 深夜に投げ込まれた石で目覚めると、窓の外には燃える街 #戦争の記憶

1945年3月10日の駒形橋付近

 2人は着の身着のまま宿から飛び出したが、炎で赤く染まった街を逃げ惑う群衆の中で、握っていた手が離れ、はぐれてしまった。焼夷(しょうい)弾の油脂が降りかかり、髪が焦げつく。1人になった昌子さんは震える足で、風上に向けて必死に走った。  「ひとりでも生き抜け。前だけを見て走れ」  それが父の教えだった。  釜太郎さんは昌子さんが幼い頃に妻と離婚し、親ひとり子ひとりで過ごしてきた。釜太郎さんは耳が聞こえない分、新聞やニュース映画などでの情報収集を欠かさなかった。昌子さんは、足腰を鍛えるためだと、遠い学校に通うのも長時間歩かされた。厳しくも優しい愛情だった。  昌子さんは、「もしもの時は」と約束していた上野公園の西郷隆盛像の下までたどり着き、そこで釜太郎さんと再会できた。せっかく分けてもらったサツマイモや、大切にしていた家族との写真も、泊まっていた宿で灰になった。焼け野原になった東京の街を朝日が照らす中、歩いて千葉へと帰った。

耳が聞こえない親子を襲った大空襲 深夜に投げ込まれた石で目覚めると、窓の外には燃える街 #戦争の記憶(読売新聞オンライン)

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◆親戚からの悪口や差別 募る苦しみ

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母・昌子さんから教わった空襲体験について説明する牧山さん

 東京下町を火の海に変えた空襲を命からがら生き延び、親子は敗戦の日を迎えた。終戦後まもなく、昌子さんの家に親戚が移住してきて、一緒に暮らすことになった。  親戚は昌子さんに向けて、苦々しく言葉を放った。声は聞こえなくても、口の動きやしぐさから、昌子さんは内容を読み取った。「わからずや」。その親戚も、昌子さんが言葉を読み取ることは当然理解していただろう。それでも悪口をやめることはなかった。  与えられる食事も勝手に減らされた。昌子さんは、差別への悔しさや苦しみを募らせた。ある日、親子は境遇に耐えかね、知人宅に身を寄せようと、慣れ親しんだ家を後にした。昌子さんは当時を振り返りながら、牧山さんに「戦争は、人を変えてしまうものだ」とよく語っていた。

◆父との別れ、その言葉を支えに

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牧山さんの父・嘉一さん(左)と母・昌子さん(牧山さん提供)

 親子が頼るつもりだった東京の知人の家は、相次ぐ空襲で跡形もなくなっていた。上野や新橋の駅近くの簡易的な宿に寝泊まりしたが、不衛生な環境での暮らしが続いたことで、釜太郎さんは病に感染した。昌子さんは限られたお金で必死に食べ物を探したが、釜太郎さんはみるみる弱り、ものの数日で息を引き取った。終戦から3か月がたった頃だった。  残された昌子さんは悲しみに暮れたが、このときも「ひとりでも生き抜け」という父の言葉が支えになった。千葉の家に戻っても食事もまともに与えられず、再び家を飛び出すと、上野の公園や駅で野宿し、たばこの吸い殻を集めてお金に換えながら過ごした。  それから2年半近くがたち、昌子さんは、幼少期に生き別れていた実母に引き取られることになった。気乗りはしなかったが、母と再婚相手が住む前橋市の家に移り、子守や仕事をしながらろう学校に通い、51年春、16歳で小学部を卒業した。その後、同じく耳が聞こえない嘉一さんと結婚し、65年には牧山さんが生まれた。

◆手話で伝えた「恐怖」と「感謝」

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手話で家族の戦争体験を語る牧山さん

 昌子さんは、牧山さんが幼い頃から、手話で戦争の恐ろしさを教えた。ベトナム戦争のニュース映像を見せ、「戦争は残酷で悲惨だ」と繰り返した。昌子さんは2007年に亡くなるまで、打ち上げ花火の衝撃と振動を怖がり、髪を焦がした臭いで空襲を思い出して苦しんでいた。  一方で、昌子さんは牧山さんに、「誰しもが生きるのに必死な時、障害者が助けてもらうのは、当たり前のことではない」とも伝えていた。周囲への感謝を忘れてはいけない、という教えだ。牧山さんの妻・富士江さんは、「昌子さんは、周囲に助けてもらった時、人の何倍もお礼をする人だった。人の内面を見抜く力が秀でていた」と振り返る。

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◆ウクライナのろう者が語った戦争の共通点

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母・昌子さんの遺影の前で、幼い頃から聞いていた戦争体験を教えてくれた牧山さん

 牧山さんは今年2月、ロシアの侵略を受けてウクライナから大分県に避難したろう者の男性と面会した。「耳が聞こえる人よりも周囲の気配や振動に敏感になり、毎晩眠れなかった」。男性が語ったのは、昌子さんが80年前に感じたのと同じ恐怖だった。新聞やSNSで情報を集め、「自分の命を守るためにあらゆる知恵を絞った」という点も、釜太郎さんと共通していた。  牧山さんは、障害者に対する社会の理解が進んでいることに感謝しつつ、いざという時に「ひとりで生き抜く」ことが難しいことも痛感している。「戦争を生き抜いた先人たちの体験や苦しみを伝えたい」。講演や本などを通じて、これからも両親の記憶を代弁したいと考えている。

◆聴覚障害者の体験証言、「口話法」で記録少なく

 東京大空襲・戦災資料センター学芸員の小薗崇明さんによると、聴覚障害者は徴兵を免れたため、男性の働き手が不足する地域の重要な労働力になっていた反面、「穀つぶし」などと差別にもさらされたという。小薗さんは「戦時下という非常事態でナショナリズムが高揚し、世間の理想像から外れた障害者らが差別や偏見を受けた」と語る。  牧山さんの父・嘉一さんの兄2人は難聴で徴兵検査に落ちた。健常者だった母親は若い男性が出征する度に、出征できない息子たちを「恥ずかしい」と悔しがったという。  音が聞こえない中でどうやって生き抜いたかは貴重な証言だが、体験の記録はあまり残っていない。その理由について小薗さんは、関東大震災以降のろう教育が、ゆっくりした口の動きと発声によって意思疎通を図る「口話法」を主流としたことを指摘している。筆談など活字での記録が少なく、戦争体験の伝承はろう者間に限られていた可能性が高いという。 (中尾敏宏)

※この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です ※読売新聞の投書欄「気流」に寄せられた投書をもとに取材しました

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