2歳三男が死亡、母が絞め殺す「足手まとい」…さらに5歳三女を川に落とす 戦後80年、満州から逃げきった男性が語った惨状「誰もが心なくした」 「私が育てる」川からはい上がった三女を抱いた姉、5日後に衰弱死(埼玉新聞)
1945年8月15日は、戦争の恐ろしさを知った日―。埼玉県秩父市の高橋章さん(91)は当時、満蒙(まんもう)開拓団の一員として中国東北部の旧満州にいた。「日本の敗戦を分かっていたのか、突然、地元住民(中国人)がわれわれに槍(やり)や鎌を向けて襲ってきた」。当時10歳の高橋さんは、母・ユキさんらと共に逃げきったが、現地の日本人約450人のうち50人ほどが命を奪われた。「あの時の中国人の目は、日本人への恨みに満ちていた。われわれは被害者であり、加害者でもあった」 高橋家の写真 祖母以外の家族7人で旧満州に渡った
高橋さんは中川村(現秩父市)で幼少期を過ごした。当時は農地が乏しく、住民のほとんどが貧農。高橋さんの父・辰三郎さんは、絹織物「秩父銘仙」の染め物職人だったが、日本政府が打ち出した「満州農業移民100万戸移住計画」に乗り、43年4月に中川村開拓団として家族7人で中国に渡った。 満蒙開拓団は、満州事変後の32年に日本が中国北東部に建立した「満州国」の開拓が目的だが、高橋さんは「開拓とは名ばかり。日本人の武力をもって、現地の人たちの土地を取り上げる『略奪』だった」と、旧満州での生活を振り返る。 現地で中国人は「苦力(クーリー)」と呼はれ、開拓団の奉公に就いていた。「力でいって聞かせる」が開拓団の方針だったが、辰三郎さんは一切、苦力に暴力を振るわなかった。「恐怖心で人を雇ってはいけない」と、高橋さんは父に教わった。 苦力らに襲撃を受けた45年8月15日、辰三郎さんは家族の元にはいなかった。「開拓団員は戦場に駆り出されることはない」と言われていたが、同年7月に18~45歳の男性全員が徴兵された。辰三郎さんはシベリア抑留に向かう途中の列車の中で命を落としたことを、高橋さんは後に知った。
同8月16日、高橋さんは14歳の少年と共に騎兵用小銃と弾200発を肩に背負い、中国人との銃撃戦に参加した。大人の開拓団は、中国人の家に火を付けて回り、逃げる者にはちゅうちょせず発砲した。命乞いをしてきた老夫婦に対しては、刀で首を切り落とした。夜が明けると、中国人の子どもや女性の焼死体が何体も転がっていた。「それらの光景を目にしても、当時の私の感情は苦ではなく、無だった。現場にいた誰もが心をなくしていた」 旧ソ連が対日参戦すると、旧満州にいた関東軍は開拓団員を置き去りにし、一斉に南下した。「日本の負け」が満州全体に広まると、現地の日本人は「集団自決」などに追い込まれた。母は逃避行の途中、足手まといになると考え、2歳の三男を絞め殺し、5歳の三女を川に突き落とした。姉のサワ子さんは、岸からはい上がってくる三女を抱きかかえ、「私が育てる」と涙ながらに母に訴えたが、姉はその5日後に衰弱死した。
高橋さんは八路軍(中国共産党)で活動後、58年に帰国。49年に故郷へ戻っていた母は、亡くなる93歳まで高橋さんに当時の悲劇を語ることはなかった。 秩父市の「荒川村誌」によると、中川村開拓団597人のうち、死亡者は288人、残留者36人、行方不明者18人。 「80年が経過した今も、『戦争をしたがっている人』は、世の中にたくさんいる。これから先も、反戦運動を絶えず行う努力をしなければ、平和は維持できない」と、高橋さんは現在の若者に思いを伝える。
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