「死亡率を見て怖くなって」31歳の時に子宮頸がん、離婚した日に…ギャルサーの総代表だった山城奈々(36)が語る、“大人の闇”とがん宣告(文春オンライン)
〈体重は60キロ→45キロ、タイから輸入した痩せ薬で…ガングロのマンバギャルだった山城奈々(36)が明かす、過酷すぎた摂食障害〉 から続く 【変わりすぎ!!】ド派手ピンク髪、ドレットヘア…ガングロヤマンバギャル時代の派手すぎる山城奈々さん(写真多数) 10代の時からテレビや雑誌で活動している山城奈々さん(36)。マンバギャルとしてギャル雑誌で活躍し、ギャルサーの2代目総代表も務めたが、19歳の時に芸能界を引退。27歳で再びモデル業を始めた山城さんだったが、31歳の時に子宮頸がんと宣告された。 そんな波乱万丈な人生の彼女に、ギャルサーの総代表時代、マンバギャルになったきっかけ、子宮頸がんと宣告された時の心境など聞いた。(全2回の2回目/ 最初 から読む) ◆◆◆
高校生ギャルサークルの2代目総代表
――学校とギャルモデル、コーディネーターの仕事の両立が大変そうですね。 山城 コーディネーターの仕事は地方出張も多かったんですよ。お祭りでパラパラを踊ってくださいとか。だから地元の高校に通うのは厳しいと思って、定時制の学校に転校したんです。 今考えると高校生なのにめっちゃ仕事をしていましたね。かなり稼いでいたと思います。それに高校1年生の時から高校生ギャルサークルの2代目総代表をやっていたので、それもなかなか忙しかったです。
ギャルサーの活動とは?
――ギャルサーって具体的に何をやるのでしょうか。 山城 とにかくイベントをして集客するのが目的なんですよ。お客さんを集めて、DJやったり、一緒にクラブで楽しんだりして。で、私たちのギャルサーにはバックにカラコンの会社がついていたので、そこがある程度お金を出してくれていたんです。 お客さんを集めてカラコンの商品を宣伝することで、その商品も人気が出るし、私たちギャルも有名になるし。一石二鳥ですよね。今でいうインフルエンサー活動的なことをリアルでやっていた感じです。 ――イベント以外は何するんですか。 山城 定例ミーツっていうのがあって、メンバー20人くらいで渋谷か埼玉に集まって次のイベントをどうするか会議します。次はこんなことをしようとか。 ――ギャルサー内で揉めたりは? 山城 特になかったですね。うちのサークルは上下関係も緩かったし、厳しい感じではなかったので。わりとわいわいやっていました。
高校3年間、総代表として「紅恋愛」をまとめていた
――ちなみにギャルサーの名前は? 山城 紅に恋愛って書いて「紅恋愛(くれあ)」です。ダサいですよね(笑)。 ――高校3年間、総代表として「紅恋愛」をまとめていたわけですね。 山城 そうですね。高校生活の中でギャルサーの存在は大きかったですね。サークルの範囲を超えて、ビジネスみたいな感じでやっていましたし、メディアから注目されることも増えましたし。 ギャルサーって本当は引退式っていう大きなイベントがあるんですよ。だけど、当時はツアーコーディネーターの仕事が忙しくて、引退式もちゃんとできなくて、なんとなくフェードアウトしていきました。で、その後「紅恋愛」自体、自然消滅です。で、その流れでギャルも引退しました。 ギャル時代は、大人の闇の部分も見てきたので、ここで一旦終了かなって。
「大人の世界ってこんな感じなの?」
――闇の部分とは具体的には。 山城 当時は薬が若い世代にすごく蔓延していて、渋谷のセンター街とかに売人がいたんですよ。普通に誰でも手を出せるものだったし、若い人も普通に買っていたんです。 あとはお金関係でも騙されて夜の世界に連れてかれたり、プロデュース業やるために悪い大人に捕まって、体を売る羽目になったり。そういうのを高校生で見ていたからやっぱりしんどかったですね。「大人の世界ってこんな感じなの?」って。 ――高校生で見る世界ではないですね。 山城 私はそういう世界とは距離を置けたのでよかったですけど、今だに引きずっている人もいるみたいですね。高校生でそういう世界に入っちゃうとなかなか出てこれないので。
グラフィックデザインの専門学校に入った
――ギャルサー引退、高校卒業後の活動は? 山城 事務所には所属していたので、オーディションに行ったりはしていたんですけど、やりたいことが見つからなくて。このままやっても仕方ないということで、19歳の時に芸能界も引退しました。で、グラフィックデザインの専門学校に入ったんです。元々絵を描くのが好きだったから。 ――好きだったことを生かして仕事にしようと。 山城 そうですね。それに手に職をつけたいなと。 専門学校を卒業してからはフリーでデザイナーをやっていました。で、数年間働いた後、27歳の時に、再びモデルになりたいと思って、モデル業を始めました。モデル業をして、結婚もして、という時期に突然がんが見つかってしまって。
がんは若いからって油断しない方がいい
――それはいつ頃でしょうか。 山城 31歳の時ですね。仲の良い友達2人が子宮頸がんになったんですよ。で、若いからって油断しない方がいいなと思って、一応健診に行ったら、そこで高度異形成が見つかって。がんのステージでは0で、がんになる前の状態だってことだったんですけど、手術しないといけないみたいで。 ――で、手術をしたと。 山城 それが当時結婚していたんですけど、かなり強烈で、いろんな大変なことがあって、手術できる状況じゃなかったんです。精神的にも一杯一杯だった時で。 それにがんではないってことで少し安心してしまったのもあって。いろいろ片付けたら手術しようと思っていたら半年過ぎてしまって。
地方の病院で、子宮頸がんの治験
――半年後に手術をしたと。 山城 そうです。「一応組織をとって検査をしますね」って言われていたんですけど、大丈夫だろうと甘く見ていたら、進行してがんになっていたんです。ステージとしてはそこまでではないけど、まだがん細胞が残っているかもしれないということで、治療をしなければいけなくて。 しかもその手術をした翌日に離婚したんです。離婚はしたし、がんになったしで、当時のメンタルはかなり落ちていましたね。 ――症状は何かあったんですか。 山城 いやそれが全くなくて。強いて言えば、おりものが水っぽいかなと感じることはあったんですが、痛みもなかったし、普通に日常生活を過ごせていたから、「こんなに元気でもがんなんだ」って思いましたね。 ――どんな治療を始めたのでしょうか。 山城 私の場合は、念のため子宮を全摘した方がいいって言われたんです。子どもも欲しかったので、それは決断できなくて、とりあえずネットでいろんな治療法を集めて。 そしたら地方の病院で、子宮頸がんの治験をやっていることがわかったんです。それに望みをかけて新幹線で通って治療を受けました。4週間に1回のペースで患部に直接塗り薬を塗るんです。それを数年続けて、ようやく寛解になりました。
自分ががんになるなんて、全く考えたことなかった
――がんになってから価値観などに変化はありましたか。 山城 自分自身をもっと大事にしようと思いましたね。「SelfLove」って言葉が最近流行っていますが、健診に行くとか、がん保険に入るとか、少しの違和感でも病院に行くとか、そういうのってすごく大切だなと。 あとは、好きなことを思いっきり楽しんでやろうって思いました。元々好きなことばかりやってきたんですが、自分の死が身近になったことでより強く1秒1秒無駄にしたくないと思って。私生活でも家のインテリアコーディネートが好きなので、そこにお金をかけたり、ホームパーティーをやったり、大好きなワインを飲んだり。 ――後悔しないように好きなことをやった方がいいと。 山城 自分ががんになるなんて全く考えたことなかったんです。がん宣告された時は「5年生存率」とかで検索して、死亡率を見て怖くなって。でも自分の人生を見つめ直すいいきっかけにはなりました。
がんの時も前を向けたのは、ギャルマインドがあったから
――現在はどのような活動をされているのでしょうか。 山城 モデルやったり、週末はDJやったりしています。やりたいことをどんどんやっていく性格なので、今後もキャリアを積んで、自分の強みを増やしていきたいですね。 ――ギャルマインドは今でも感じますか。 山城 ありますね。負けず嫌いなところとか、常に前を向くところとか。誰かから何か言われても「自分は絶対にやってやるんだ」って強く思えるのはギャルマインドなのかなって思います。 それこそがんの時も前を向いて頑張れたのは、ギャル時代の明るさがあったからなのかなって。これからもギャルマインドを忘れずにポジティブに楽しんでいきたいですね。 写真=山元茂樹/文藝春秋
「文春オンライン」編集部

Post a Comment
Yorum ekle